

こんにちは!さっぱどです。
今回は森博嗣さんの
「勉強の価値」を紹介。
森さんのレビューは、
「すべてがFになる」、「お金の減らし方」に続いて三冊目。
今回も期待を裏切らず、興味をそそられる内容です。
理路整然と語られていて、
あっという間に読了。
多くの教訓を得た中から、
十一に厳選して紹介。
赤が結論、黄色が理由の色分けです。
それではどうぞ。

森博嗣さんの、プロフィールです。
森 博嗣は、日本の工学者・小説家・随筆家・同人作家。学位は工学博士。元名古屋大学大学院環境学研究科都市環境学専攻助教授。ローマ字表記は「MORI Hiroshi」。妻はイラストレーターのささきすばる。近年は、清涼院流水が立ち上げたプロジェクト「The BBB」に参加し、英語版の著作を発表している。 ウィキペディア 生年月日: 1957年12月7日 (年齢 63歳)出生地: 愛知県代表作: 『すべてがFになる』; 『スカイ・クロラ』配偶者: ささき すばるジャンル: 推理小説映画: スカイ・クロラ The Sky Crawlers
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

まずは、結論と理由から。
結論:勉強は、釘を打つ練習である。

わかりやすく例を上げよう。たとえば、金槌(かなづち)で釘を打つこと、これが「勉強」というものの本質である。もし、 金槌 で釘を打つことが楽しいという人がいれば、それはそれで幸せである。 一生その趣味を続けて、釘を打ち続けていればよろしい。しかし、普通は、釘を打つ目的がほかにある。その目的が、釘を打つ行為を始めるよりもさきにある場合は、釘を打つことが楽しく感じられるだろう。自分が作りたいものがどんどん出来上がっていくし、また、釘の打ち方も次第に上達するはずである。これもまた、楽しい体験となる。だが、その楽しさは、「作りたいもの」へ近づくプロセスが生み出している。一方、まだ作りたいものがない人、作る目的がない人に、釘の打ち方を教えるとしたら、どうだろうか? それを教わる人は、いったい何が楽しいのか、まったくわからない。非常につまらない、と感じるだろう。もっと楽しいことが沢山あるのに、どうしてこんなことをしなければならないのか、と考えるはずだ。
P.24-26

- 金槌(かなづち)で釘を打つこと、これが「勉強」というものの本質である。
- 目的と手段を分かりやすく説明。腑に落ちる。
履き違えそうになる所を、分かりやすく言語化。
理由:「作りたいもの」へ近づくプロセスが、生み出している
- 「作りたいもの」へ近づくプロセスが生み出している。
- プロセスが生み出す先を見据えること。
釘打ちの先にある、楽しい未来を見据える。
漫画の続きのような、あとちょっとの”刺激”が大切。
こうならないように!↓


ここからは、
具体例を八つ紹介!
具体例1:勉強が楽しくなる釘の打ち方
釘打ちを学ぶことが楽しく感じられる、唯一のケースは、作りたいものが目前にある場合である。
作りたいものとは、「作りましょう」と他者から提示されたものではない。そのように用意された目的は、やはり一時の幻想といえる。「こんな立派な本棚が作れますよ、これを皆さんでこれから作りましょう」というような、釘打ちの学び方では駄目だ、いうことである。ここを注意していただきたい。そうではなく、自分が作りたいものがまずあって、そのためには、どうしても釘を打たなければならないことが判明する。だから、釘の打ち方を勉強したい、そうなって初めて、その勉強に意味が浮上し、価値が生じるのである。このようなシチュエーションでは、どうすれば自分の夢が実現するだろうか、と必死になって方法を模索する事になる。その過程で、釘打ちという方法を発見し、その方法について調べ、必要な道具も揃えて、「自分にできるだろうか」とと迷いつつもチャレンジすることになる。こうなったとき初めて、方法を学ぶことが「楽しい」ことに昇華(しょうか)される。
すなわち、「勉強」が楽しくなるのは、そうなることで夢が叶うという目的が明確にある場合なのだ。こうなった時の勉強の楽しさといったら、ちょっと他では得られないほど凄(すごい)いものだ。 そんな状況で勉強をしたことがある人は、大きく頷(うなず)くことだろう。もしかして、これよりも楽しいものは、この世にないのではないか、と感じられるほど、わくわくし、興奮し、生きていることの価値を実感できる時間になる。そして、おそらく、大部分の人たちは、この楽しさを知らずに生きているのではないか、と想像する。
本書で述べる「勉強の価値」とは、前期のような条件下で生じるものである。
P.27-29

レビュー:これより楽しいものは、この世にない

ポイントは、六つ。
勉強を「釘打ち」にわかりやすく言語化。
「釘打ち」が楽しく感じられる、ではなく、「釘打ち」が楽しくなる、の違いですね。
- 釘打ちを学ぶことが楽しく感じられる、唯一のケースは、作りたいものが目前にある場合である。
- 作りたいものとは、「作りましょう」と他者から提示されたものではない。そのように用意された目的は、やはり一時の幻想といえる。
- すなわち、「勉強」が楽しくなるのは、そうなることで夢が叶うという目的が明確にある場合なのだ。
- その過程で、釘打ちという方法を発見し、その方法について調べ、必要な道具も揃えて、「自分にできるだろうか」と迷いつつも、チャレンジすることになる。 こうなったとき初めて、方法を学ぶことが「楽しい」ことに昇華(しょうか)される。
- 本書で述べる「勉強の価値」とは、前期のような条件下で生じるものである。
- こうなった時の勉強の楽しさといったら、ちょっと他では得られないほど凄(すごい)いものだ。
具体例2:アウトプットする機会が子供にはない

ポイントは、一つ。
アウトプットを前提にしたお話の場合。
アウトプットをする機会のなさが、インプットできない原因を述べています。

アウトプットする機会があれば、運動不足は解消されるのだが、この年齢の子供たちには、テストくらいしか、知識を発揮する機会が与えられていない。ここが、肉体的な運動と頭脳の運動の違いである。運動場で遊ぶように、勉強の成果を発散するような機会はない、ということだ。
勉強したことをテストでアウトプットする場合、通常は正解か不正解かという判定を伴う。点数がつき、その結果が他者と比較されるだろう。こういったアウトプットしかないから、アウトプットが嫌になる子供が増える。大勢いれば、比較結果でトップグループに入る人数は限られているから、大勢の子供はテストが嫌いになるだろう。アウトプットを嫌がっていると、必然的にインプットも嫌になる。運動しないで食べてばかりいると肥満になるのと同じで、だんだん頭が重くなってくるし、イメージ的に、「もう頭には入らない」といった満腹感を抱くことになるだろう。
学校教育において、勉強が苦痛なものになるのは、これが原因だと思われる。スポーツのようにアウトプットするのが楽しい、汗を流すことが清々(すがすが)しい、という感覚を子供に気づかせるような機会が、今の教育機関には存在しない、ということが問題なのである。
P.72

- スポーツのようにアウトプットするのが楽しい、汗を流すことが清々(すがすが)しい、という感覚を子供に気づかせるような機会が、今の教育機関には存在しない、ということが問題なのである。
- 勉強したことをテストでアウトプットする場合、通常は正解か不正解かという判定を伴う。点数がつき、その結果が他者と比較されるだろう。こういったアウトプットしかないから、アウトプットが嫌になる子供が増える。
アウトプットを嫌がっていると、必然的にインプットも嫌になる。

確かにスポーツのように毎日の練習によってアウトプットが行われていると、
必然的にインプットも行われし、代謝も良くなる。
大人になった今、自分もの「アウトプット」を工夫し
清々しい汗をかきつつ、学んでいきたい。
具体例3:「研究」という行為とは?

ところが、四年生になって取り組んだ卒研は、そうではなかった。研究をして論文を書くことが課題だが、まずは、関連した研究論文を読まされる。世界中の研究者が発表したものだ。そして、それらを踏まえて、何がわかっていないか、どこに疑問点があるのか、を考える。ようするに、まだ解決されていないもの、残っている「謎」を見つけるのだ。
~中略~
この「世界で自分が最初に発見する」という状況が、僕にはとても目新しいものに感じられた。久しぶりに好奇心が湧きあがった。それまで、自分の前に現れた問題には、解答があった。解いてみて、正解かどうかで評価されるだけだった。つまり、自分よりもさきに解決した人がいる、というのが当然だと思っていたのだ。
P.83-84


ポイントは、四つ。
工学博士らしい見解です。
残っている「謎」の発想が目鱗。
当然の先入観に気付く。
好奇心を持って、残っている「謎」に挑戦。
- 残っている「謎」を見つけるのだ。
- そして、それらを踏まえて、何がわかっていないか、どこに疑問点があるのか、を考える。
- つまり、自分よりもさきに解決した人がいる、というのが当然だと思っていたのだ。
- 「世界で自分が最初に発見する」という状況が、僕にはとても目新しいものに感じられた。久しぶりに好奇心が湧きあがった。
具体例4:勉強の本質は、捏(こ)ねくり回すような思考

勉強とは、結局はこの自分の頭を回すことなのだ。データをインプットしたときには、その新しいデータについて考える。いろいろなものと関連させたり、そこからヒントを得て、別のものに展開させたりする。そう言ったことを繰り返すうちに、百に一つくらい現実的で有用なアイデアが生まれる。大部分は、捨てるしかないけれど、また別の機会に復活できるようなことだってある。
ものを関連させるには、似ている物を探したり、反対のことを考えたり、組み合わせを変えてみたりする。そう言った「捏(こ)ねくり回す」ような思考を常にする。観察された事象を抽象化することも、そんな作業では欠かせない。具体的なものから一旦離れて、本質を考える。具体的な問題は、本質を見えにくくするだけで、考えるうえで障害となるからだ。
発想とは本来、基礎的なものであり、具体的なデータは二の次。それらはあとあと現場で辻褄を合わせるくらいしか意味がない。例えば、建築のデザイナは、大まかなスケッチを最初にする。これが本質である。これを、現場で沢山のスタッフが細かい寸法を合わせ、材料や工法を選択して実現していく。ほとんどの才能は、最初のスケッチに注ぎ込まれる。そして、その建築物は、設計者の名のもとに歴史に残るのである。頭が創造的な活動をしているときに、その人の才能が際立ち、さらにその才能が成長する。すなわち、これが勉強の本質である、といって良いだろう。
P.168-169


ポイントは、四つ。
「捏(こ)ねくり回す」、
この泥臭さが大切。
- 勉強とは、結局はこの自分の頭を回すことなのだ。
- 「捏(こ)ねくり回す」ような思考を常にする。
- 発想とは本来、基礎的なものであり、具体的なデータは二の次。
- 大まかなスケッチを最初にする。これが本質である。
具体例5:考えるときには息を止める

「アウトプットとインプットの関係」、「呼吸」について 。
ポイントは以下の三つ。
- このとき、本当の「勉強」を僕は見つけたのだ。
- それまでの勉強と何が違っているのか、というと、一方通行ではないし、また、一定の経路から頭にインプットされるものでもなかったことだ。
- したがって、大部分の時間はアウトプットしている。
- 一つインプットがあると、それについて考え、計算して、実際に試して見るという行動が伴う。
- 考えているときは、呼吸がとても大事で、ここぞと難しい思考をするときは、息を止めている。
- これは、百メートル走の選手と同じで、息を止めないと瞬発的な力が発揮できない。

今まで話した中では、大学四年生の時の卒研の体験が、カルチャショックだった。このとき、本当の「勉強」を僕は見つけたのだ。それまでの勉強と何が違っているのか、というと、一方通行ではないし、また、一定の経路から頭にインプットされるものでもなかったことだ。以来、ぼくは研究を続け、そのまま就職をして、三十年研究という「勉強」を続けてきたけれど、これは、本当にエキサイティングで、眠くなるような事は一切なかった。それどころか、面白すぎて寝られなくなる。体調を崩したら、研究を続けられなくなるから、意識して「寝よう」「休もう」とコントロールしないといけないほどだった。この勉強は、時々データをインプットすることがあるものの、それは時間的に非常に僅かな部分で、一パーセントくらいだといって良い。一つインプットがあると、それについて考え、計算して、実際に試して見るという行動が伴う。したがって、大部分の時間はアウトプットしている。頭をフル回転させて、運動している状態だから、お腹が減る。だいたい、チョコレートなどの糖分が欲しくなる。躰はほとんど動かないのに、頭脳がエネルギィを消費するからだ。
この思考の没頭というのは、少々危険な精神状態かもしれない。なにを見ても、今考えている研究の事と関連づけようとする。散歩していても、あるいは寝ていても、常に考えている。夢の中で考えに考え抜いて、面白いアイデアを考え付いたことは一度や二度ではない。
考えているときは、呼吸がとても大事で、ここぞと難しい思考をするときは、息を止めている。これは、百メートル走の選手と同じで、息を止めないと瞬発的な力が発揮できない。人間はそうゆうふうにできているようだ。思考も同じで、一番頭が回転する瞬間には、呼吸をしていない。皆さん、それくらい考えたことはありますか?
棋士が対局をしているときも、きっと呼吸を整え、息を止めて考えるときがあるだろう、と想像する。コンピュータプログラミングをしていても、運動した後のように、深呼吸をしたくなる時が訪れる。
P.166-167


森さんが本当の「勉強」について述べているのが興味深い。
一定の経路や一方通行などの法則性の回答ではなく、
いろんな物事からインプットを導き出しているのが伺える。
インプットの活用法も非常に有用で、絞り出すように思考している。
あくまでアウトプットが前提。
そして、難しい思考の時には呼吸がとても大切で、
ここぞと難しい思考をするときは、息を止めていると。
呼吸を止める方法を術を伝えている。
この感覚は納得で、集中したい時などは感覚的に私も息を止めている。
このことから、思考には呼吸レベルにまで触れている点に関心しました。
具体例6:自分で楽しみを作れない人たち

自分が何をしたいのか、が分からない人が本当に大勢いる。ネットを眺めていると、それがよくわかる。そういう人たちを誘い込もうとする商売もまた多い。「これで楽しめますと」と誘っている。
自分が何をしたいのかを知らない人は、自分で楽しみを作れない。作れるなんて、考えてもいない。楽しみは、どこか自分以外のところにあるはず、ときょろきょろと探している。楽しみは、本来その人から生まれるものなのに、外部に用意されているものだと勘違いして、探しているのだ。
どこかにあるはずだ、と探し続けるうちに、宣伝に引っ掛かり、釣り上げられる。そこで、ちょっとした楽しみに高額を支払い、それが人生の楽しみだ、と思い込んでしまう。本当の楽しみを知っている者から見ると、なんとももったいない話だ、と感じられるのである。
もっとも、他者のことは自分には関係ない、と「楽しみ」を知っている人たちは考えている。だから、むやみに人を誘ったりしない。自分と同じ趣味に他者を勧誘しようとする人は、本当の「楽しみ」を知らない人であり、大勢に仲間ができないと「楽しく」ならない、と考えている。
この「他者」には家族も含まれる。楽しいことは家族で一緒にやろう、と考えている人がとても多い。特に、子供たちを巻き込もうとする。大人の価値観を押し付ける行為であり、子供の自由を奪っているという自覚がない。
P.219-220
レビュー ”所詮人生は、自己満足”


ポイントは、二つ。
- 自分が何をしたいのかを知らない人は、自分で楽しみを作れない。作れるなんて、考えてもいない。
- この答えは、先日読んだちきりんさんの
「未来の働き方を考えよう」から引用。↓ - その中で、そもそも自分がしたいものを見つけられる人は、
中々いないと解説。。
何時間も寝食を忘れて夢中になれるものを見つけられたら、
人生満足に過ごせると解説。
(見つけられない人は、今の選択が一番マシな選択)
- むやみに人を誘ったりせず
- ”所詮人生は、自己満足”
ゆるりと
「自分楽しみの研究」を続けたい。
具体例7:「個人研究」のすすめ

ということで、老人に特におすすめの「勉強」は、個人研究である。
普通の勉強は、既にある知見を学ぶことだ。これは、社会で役に立つものが多い。役に立つものほど、一般的に知識が広く公開されているから、学ぶ環境が整っている。したがって、繙(ひもと)いたり、あるいはネットで調べたりできる。
一方、研究というのは、世の中に存在しない知見を得る行為である。これを個人で行おうというわけだから、普通の人にはハードルが高い。研究するためには、まずその分野の専門家にならなければならない。既往の知見を網羅して学ぶ必要がある。そのうえで、不明な部分を自分で見つけ、その問題を解決しようとする挑戦が「研究」である。ちょっと考えただけで、尻込みする人が多いことだろう。
そこまで本格的なものでなくても良い。だから「個人研究」と呼んでいる。hobby)」に近い行為だと考えていただいてけっこうだ。
役に立つことは、既に誰かが研究している。特に、なにかを開発して、それで利益が得られるようなものは、それを仕事にしている人が大勢いる。今からスタートしても太刀打(たちう)ちできないだろう。
そうではなく、本当にどうでもいいこと、小さなこと、だれも目を向けないような事をテーマにして、徹底的に調べたり、あるいは試したりする、というのが個人研究である。どんなにつまらないことでも、真剣に取り組んでいるうちに、沢山の課題が見えてくる。また、新しい視点に気づいたり、さらには別のテーマにシフトすることもあるだろう。
誰かに支持されて始めるわけでもなく、自分で考え、とにかくなにかをやってみること。そのとき、「何をしようか」と考えることも、既に研究の始まりだ。じっくりと時間をかけて考えてもらいたい。
P.221-222
レビュー 「趣味(hobby)」に近い行為


ポイントは、四つ。
- 研究というのは、世の中に存在しない知見を得る行為
- 否が応でも、思考するしかない。
- そこまで本格的なものでなくても良い。だから「個人研究」と呼んでいる。「趣味(hobby)」に近い行為だと考えていただいてけっこうだ。
- 「趣味(hobby)」に近い感覚の軽い気持ちで、挑む。
- どんなにつまらないことでも、真剣に取り組んでいるうちに、沢山の課題が見えてくる。
- つまらないものは、仕事になる。世の価値になる。
ただ会社と違うのは、自分でその価値を作る悦びが、生まれることだと想う。
- 誰かに支持されて始めるわけでもなく、自分で考え、とにかくなにかをやってみること。
- 誰かに支持されて始めるわけでもなく、が大切。流されずに、自分の思考を保つこと。
具体例8:研究は秘密裏に

ここで大事なのは、しばらく人に話さないことである。あくまでも、自分一人の活動として、日々少しずつ始めるのがよろしい。記録は残した方が良いけれど、ネットなどでの公開は控えよう。少なくとも一年や二年は黙って、秘密裏に勧めることをお勧めする。何故なら、その沈黙の期間にあなたはきっと自分だけの「楽しさ」を見つけることが出来るからだ。公開すると、たちまち他者を意識したものになるし、また反響があることで、自分の動機が濁(にご)ってくるだろう。人のために、という部分が出て来ると、目的を見失うことになるかねない。
まずは、自分の楽しみを見つける方が先決で、それが確固たる者になってからならば、公開しても大丈夫だと思われる。今は、ネットで簡単に世界中に向けて発信できる。そうすることで、近いテーマの人からヒントをもらうこともあるかもしれない。また、場合によっては誰かから非難を受けることもあるかもしれない。そう言う場合にも、自分の楽しみを知っていれば、影響を受けない。それが確立するまえに、他者からの意見をもらうことは、無駄な感情に惑わされるだけで、あなた自身にメリットがない。
このような、自分の楽しみを見つけることが「勉強」といえる。これが本来の「勉強」である。個人研究は、あくまでもアウトプットだ。考えることは、頭脳を働かせる活動である。ここを間違えないでもらいたい。本を読むだけでは駄目で、それを考え、分析し、発展させたり、試したりする行為が必要なのだ。
P.223-224
レビュー:個人研究は、あくまでもアウトプット


ポイントは、五つ。
- その沈黙の期間に、あなたはきっと自分だけの「楽しさ」を見つけることが出来るからだ。
- 沈黙の大切さを述べている。内省して自分を見つめる。
- 自分の楽しみを見つける方が先決
自分の楽しみを知っていれば、影響を受けない。 - 自分自身をぶらさない!
- 自分の楽しみを見つけることが「勉強」
個人研究は、あくまでもアウトプット - 思考を回す習慣を楽しむ。
まとめ:勉強の価値は、プロセスを楽しむ自己満足

この本から得た教訓は。
「勉強」という「釘打ち」
「釘打ち」は、
楽しくするものであり、
他者から
与えられるものではない。
「勉強の価値」は、
プロセスを楽しむ自己満足。
森さんのビジネス書は、
以前読んだ「お金の減らし方」と並び、
興味のそそられる内容。
小説と並んで、
指名買いする作家さんになりました。
他の作品もぜひ読んでみたいもの。
それでは、また。
追記:過去に紹介した、
森さんのレビューはこちら!
明けの明星と時間の価値
すべてがFになるピンと来るものを見逃すな!
お金の減らし方